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東京地方裁判所 平成9年(ワ)18746号 判決 1998年9月25日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金五四二万八三〇一円及びこれに対する平成九年八月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告が、その従業員であった被告に対し、「被告は、原告の留学規程に基づき、アメリカ合衆国ボストン大学経営学部大学院に留学した後、五年以内に自己都合により退職したが、このような場合について、原告の留学規程が留学費用を返還すべきことを定めており、また、原被告間で留学費用返還の合意がされていた」として、留学費用の返還及び遅延損害金の支払を請求する事案である。

一  争いのない事実等

1  本件雇用契約の締結

(一) 原告は、証券会社である。

(二) 被告は、昭和六三年四月一日、原告に雇用された(以下原被告間の雇用契約を「本件雇用契約」という。)。

2  被告の留学

被告は、平成四年一月二日から平成五年五月二八日までの間、原告の留学規程に基づき、アメリカ合衆国ボストン大学経営学部大学院に留学し、経営学修士号(MBA)を取得した。

3  原告による本件留学費用の負担

原告は、次のとおり、被告の留学費用合計金五四二万八三〇一円(以下「本件留学費用」という。)を負担した。

(一) 留学支度料 一三万円

(二) 日当 二万七二二六円

(三) 宿泊料 一一万六六八五円

(四) 着後手当 四万五三七八円

(五) 帰国手当 六万円

(六) 渡航費 三八万九八五四円

(七) 引っ越し費用 五六万三七九〇円

(八) 授業料 三七三万八〇一九円

(九) 教材費 八万四二七二円

(一〇) 交通費 一万三八二〇円

(一一) その他費用 二五万九二五七円

4  就業規則等の定め

(一) 原告の就業規則(<証拠略>)には、次の規定がある。

七七条

会社は、従業員の能力開発を援助するため、別に定めるところにより研修を行う。

(二) 原告の留学規程(<証拠略>、以下「本件留学規程」という。)には、次の規定がある。

一条一項

この規程は、職員を大学、大学院及び学術研究機関等に派遣して、証券業務に関する専門的知識の吸収、諸資格の取得及び国際的視野の拡大に努めさせ、もって会社の発展に寄与することを目的とする。

一条二項

この規程は、前項の目的により派遣を命ぜられた職員の留学について必要な事項を定めることを目的とする。

二条二項

海外留学生とは、海外に留学派遣を命じられた職員をいう。

六条

留学生は、留学先において、当社業務に関連のある学科を専攻するものとする。

一八条

この規程を受けて留学した者が、次の各号の一に該当した場合は、原則として留学に要した費用を全額返還させる。

(1) <略>

(2) 留学終了後五年以内に自己都合により退職し、又は懲戒解雇されたとき

5  被告の退職

被告は、平成九年三月二〇日自己都合により原告を退職した。

6  本件留学費用の返還の催告

原告は、被告に対し、平成九年三月二〇日、被告の退職に際し、本件留学費用の返還を請求した。

二  争点

1  留学終了後五年以内に自己都合により退職した場合は原則として留学に要した費用を全額返済させる旨の本件留学規程一八条は、就業規則としての法的規範性を有するか否か。

2  原告と被告とは、遅くとも平成三年一二月ころまでに、被告が留学終了後五年以内に自己都合により退職した場合には、留学に要した費用を全額返還することを合意したか否か。

3  留学終了後五年以内に自己都合により退職した場合は原則として留学に要した費用を全額返済させる旨の本件留学規程一八条は、労働基準法一六条に違反するか否か。

第三  当事者の主張

一  請求の原因

1  「争いのない事実等」1から6まで(本件雇用契約、被告の留学、原告による本件留学費用の負担、就業規則等の定め、被告の退職、本件留学費用の返還の催告)のとおり。

(法的規範性を有する本件留学規程に基づく留学費用返還請求)

2  「争いのない事実等」4のとおり、原告は、就業規則に基づいて本件留学規程を定めているが、人事部研修室、総務部に留学規程の小冊子を備え置き、留学に関心のある従業員に対してこれを配布してきた。また、人事部研修室の担当者は、留学の決定した従業員に対し、右小冊子を交付して説明してきた。

(合意に基づく留学費用返還請求)

3(一)  原告と被告とは、遅くとも平成三年一二月ころまでに、被告が留学終了後五年以内に自己都合により退職した場合には、留学に要した費用を全額返還することを合意した(以下「本件合意」という。)。

(2) 本件合意の成立は次の事実から明らかである。

すなわち、平成三年一二月二日、ボストン大学から被告の入学を認める通知が来たので、原告の担当者堀川(旧姓沢田)由香は、被告に対し、そのころ、本件留学規程の小冊子を交付して説明した。被告は、本件留学規程を読み、堀川由香に対し、「五年以内に辞めたら、費用は返すのね。」と述べた。

4  よって、原告は、被告に対し、本件留学規程又は本件合意に基づき、本件留学費用五四二万八三〇一円及びこれに対する平成九年八月八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、「争いのない事実等」4のとおり、原告が就業規則に基づいて本件留学規程を定めていることは認めるが、原告が、人事部研修室、総務部に本件留学規程の小冊子を備え置き、留学に関心のある従業員に対してこれを配布してきたこと、人事部研修室の担当者が、留学の決定した従業員に対し、右小冊子を交付して説明してきたことは知らない。被告が人事部研修室の担当者から本件留学規程の小冊子の交付を受けて説明を受けたことは否認する。

3  同3(一)及び(二)の事実は否認する。

4  同4は争う。

三  抗弁

留学終了後五年以内に自己都合により退職した場合は原則として留学に要した費用を全額返済させる旨の本件留学規程一八条は、労働基準法一六条に違反する。

四  抗弁に対する認否

争う。

五  争点に関する当事者の主張

1  争点1について

(原告の主張)

原告は、就業規則七七条(「研修」、<証拠略>)に基づき、従業員研修要綱(<証拠略>)及び本件留学規程(<証拠略>)を定めており、人事部研修室、総務部に本件留学規程の小冊子を備え置き、留学に関心のある従業員に対してこれを配布してきた。また、人事部研修室の担当者は、留学の決定した従業員に対し、右小冊子を交付して説明してきた。したがって、本件留学規程は周知性を備えている。

被告は、従業員研修要綱及び本件留学規程に基づいて留学し、その効果を受けてきた。被告より前に留学した従業員で留学を取り消され、本件留学規程に基づき留学費用を返還している実例がある。以上によれば、本件留学規程一八条は就業規則としての法的規範性を有するものというべきである。

(被告の主張)

本件留学規程は、労働条件を定めた就業規則としての性質を有しているが、本件留学規程は一般に従業員に配布されていなかったし、平成三年当時は各事業場の長が管理保管している就業規則集の冊子の中に本件留学規程は含まれていなかった。このように、本件留学規程は、原告が労働基準法一〇六条一項所定の周知義務を果たさないため、従業員がそれを知り得る状況にはなかった。原告は留学に関心のある従業員等に個別に説明したと主張するが、それでは本件留学規程が周知性を備えたとはいえず、本件留学規程は就業規則としての法的規範性を有しない。

2  争点2について

(原告の主張)

(一) 被告と伊藤直也は、平成三年五月九日から同年八月三日までの間、神戸市所在の三洋電機株式会社の教育訓練センターで講義を受けたが、原告は、右講義に先立ち、同年五月ころ、被告と伊藤直也に対し、帰国後五年以内の自己都合による退職の場合に留学費用を返還しなければならないことを含めて本件留学規程の内容を説明した。

(二) 平成三年一二月二日、ボストン大学から被告の入学を認める通知が来たので、原告の担当者堀川(旧姓沢田)由香は、被告に対し、そのころ、本件留学規程の小冊子を交付して説明した。被告は、本件留学規程を読み、堀川(旧姓沢田)由香に対し、「五年以内に辞めたら、費用は返すのね。」と述べた。

(被告の主張)

(一) 原告の主張(一)の事実は否認する。三洋電機株式会社の教育訓練センターでの講義の段階では受講者の留学は決まっておらず、本件留学規程の説明などはされるはずがない。

(二) 原告の主張(二)の事実は否認する。

堀川(旧姓沢田)由香は、当時原告の人事部研修室に所属し、被告を担当していたが、大学を卒業して入社したばかりであり、事務連絡等を担当していたに過ぎない。被告は、堀川(旧姓沢田)由香と初対面であり、「五年以内に辞めたら、費用は返すのね。」と気安く話をする間柄ではなかった。

本件留学規程、殊に留学費用の返還という重要な説明はしかるべき人事担当者が行うのが通常である。被告は、留学中の給与について給与課の多田課長から説明を受けた記憶があるが、本件留学規程については一切説明がなかった。

留学前、被告は、結婚を真剣に考えており、二年間もの長期間留学をすることに大きな不安を抱いていたから、仮に留学費用の返還の説明を受けていたら、留学を断念していた。

被告は、平成九年二月二四日付けで退職届(<証拠略>)を提出し、同年三月一二日付けで「退職に伴う諸手続きについて」(<証拠略>)と題する書面を交付されたが、本件留学費用の返還については、この書面にも何も記載されていないし、何らの説明も受けなかった。本件留学費用の返還請求は、同年三月二〇日の退職日当日、午後四時三五分ころ、初めて聞かされた。

被告が、本件留学規程の存在を知っていたら、後一年我慢すれば本件留学費用の返還という問題に直面することはなかった。五年を経過する前に退職を申し出たこと自体、被告が本件留学規程を知らなかった証である。また、被告は、再就職先に本件留学費用の負担を転嫁させる交渉等をしていない。

3  争点3について

(被告の主張)

労働基準法一六条は、労働者の拘東、使用者への身分的従属を禁止し、労働者の職業選択の自由を保障するものである。

使用者が技能者養成の一環として自らの費用で修学させ、修学後の労働者の勤務を確保するために、所定の場合に労働者に使用者が負担した右費用を返還させることを定める就業規則の規定は、これが一定の期間労働者を拘束することを定めるものであれば、労働者を不当に拘束するものであり、労働基準法一六条に違反する。

被告の留学は、原告の業務の一環として命じられたものである。被告は、上司から強く勧められて留学選抜試験に応募したのであり、実質的には社命による留学であった。留学で修得を求められた内容も業務の一環であった。その対価の支払も受けている。本件留学規程上も、職員に業務に必要な知識等を修得させるために留学させるのであり、業務の一環として留学派遣する趣旨が規定されている。

右のとおり、原告は、業務の一環として、技能者養成のために被告を留学させたのであり、留学終了後五年間もの長期間拘束する内容の本件留学規程一八条は、労働基準法一六条に違反し無効である。

(原告の主張)

本件留学規程一八条は、留学した者を長期間拘束する(すなわち、退職を認めないとする)ものではなく、留学終了後五年以内に自己都合によって退職した場合は、留学費用を返納させるという形で処理することを定めているものである。

また、留学費用の返納は、違約金ないし損害賠償額の予定の性格を有するものではない。

被告の主張は理由がない。

第四  争点に対する判断

一  争点1(本件留学規程一八条の就業規則としての法的規範性の有無)について

1  本件留学規程の法的性質(就業規則としての性質)について

前記「争いのない事実等」並びに<証拠・人証略>によれば、次のとおり認めることができる。

原告の就業規則七七条は、「会社は、従業員の能力開発を援助するため、別に定めるところにより研修を行う」旨定め、従業員研修要綱は、この規定に基づき、研修体系を定めている。本件留学規程は、従業員研修要綱の定める職場外研修のうち派遣研修について定めるものであり、原告の職員を大学、大学院及び学術研究機関等(海外を含む。二条二項)に派遣して、証券業務に関する専門的知識の吸収、諸資格の取得及び国際的視野の拡大に努めさせ、もって会社の発展に寄与することを目的とし(一条一項)、その留学について必要な事項を定めており(一条二項)、留学生に対し、本件留学規程に定めがない事項については就業規則、海外勤務規程及びその他の諸規程を適用することとし(三条)、留学生は、留学先において、原告の業務に関連のある学科を専攻するものとし(六条)、留学期間中は原則として通常の月次給与を支給するが、海外留学生については通常の月次給与に替えて現地滞在費を支給することとし、現地滞在費は海外勤務規程に定める所定の在勤手当の八〇パーセントとすることとし(二一条一項から三項まで)、海外留学期間中は通常の月次給与及び賞与を支給せず、海外勤務規程の規定に準じて毎月月次留守宅手当を支給するほか、賞与の支給時に標準考課による賞与支給額の八〇パーセント相当額から賞与にかかわる源泉所得税相当額を控除して支給することとする(二二条一項)等の規定を定めている。

右によれば、本件留学規程は、原告が、従業員に対し、研修の一環として大学、大学院及び学術研究機関等(海外を含む。二条二項)に派遣を命じた場合につき必要な事項を定めるもので、労働契約関係における労働者の待遇にかかわる事項を定めるものということができるから、使用者が就業規則の形式により労働条件の一部を定めるものであり、法的性質は就業規則に当たるということができる。

2  本件留学規程の周知性について

(一) 就業規則は、使用者が事業の運営上労働条件を統一的、画一的に決定する必要があるため、労働条件を定型的に定めるものであり、それが合理的な労働条件を定めているものである限り、使用者と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至っているものと解されている(最高大昭四三・一二・二五判、民集二二巻一三号三四五九頁、秋北バス事件)。就業規則のこのような法的規範性を肯定するには、使用者が労働条件を定型的に定める就業規則を作成し、その内容が合理的なものであることを要するほか、その就業規則が周知性を備えることを要するものと解するのが相当である。労働基準法一〇六条一項は、就業規則を常時各作業場の見易い場所に掲示し、又は備え付ける等の方法によって労働者に周知させなければならないと規定し、使用者に就業規則の周知義務を課している。この規定は取締規定であり、これが遵守されていなければ就業規則が周知性を備えたといえないわけではないが、就業規則が周知性を備えるためには、その事業場の労働者の大半が就業規則の内容を知り、又は知ることのできる状態に置かれていることを要するものと解するのが相当である。

また、同一事業場において、労働基準法三条に反しない限り、一部の労働者についてのみ適用される就業規則を作成することは可能であるが、この場合についても、周知性を備えるには、該当する労働者の大半が就業規則の内容を知り、又は知ることのできる状態に置かれていることを要するものと解するのが相当である。

(二) <人証略>の証言に弁論の全趣旨を併せて考えれば、平成三年当時までは、原告は、従業員全員に対し、就業規則の小冊子を配布するほか、給与規程その他の規程を集録した規程集を本部、各支店の各部署の所属長に交付していたが、本件留学規程については、従業員に配布せず、各部署の所属長に交付する規程集にも集録せず、人事部研修室、総務部に本件留学規程の小冊子を備え置き、留学に関心のある従業員に対してこれを配布し、また、人事部研修室の担当者が、留学の決定した従業員に対し、右小冊子を交付して説明してきたにとどまることが認められる。

右認定によれば、原告は、留学に関心があり、又は留学の決定した少数の従業員に対してのみ、本件留学規程の内容を知らせるにとどめていたものであり、使用者側の内規としての意義を有するにとどまっていたものではないかとの疑問がないとはいえないが、適用を受けるべき労働者が一部の者にとどまることからすると、右に述べた方法でも本件留学規程が周知性を備えたことを肯定することができる。

二  争点2(本件合意)について

原告は、争点2についての「原告の主張」欄に摘示したとおり主張する。

甲第九号証の記載及び証人碓田勉の供述中には、原告の右主張に沿い、被告が海外留学願書を提出した直後から被告の留学終了直前まで研修室長を務めていた碓田勉は、過去に留学費用を返還させる実例があったことから、研修室の海外留学担当者の堀川(旧姓沢田)由香と西野に対し、留学する者に留学費用の返還の規定について十分説明するよう指示し、右担当者らは右の点をよく説明するようにしていたこと(<証拠・人証略>)、研修室長碓田勉は、被告と伊藤直也が三洋電機株式会社の教育訓練センターで講義を受けるに先立ち、両名に対して帰国後五年以内の自己都合による退職の場合に留学費用を返還しなければならないことを含めて留学規程の内容を説明するよう、研修室の担当者に指示し、担当者から説明した旨の報告を受けたこと(<証拠・人証略>)、平成三年当時原告の研修室の海外留学担当者の堀川(旧姓沢田)由香は「留学生出国前後の諸手続き」という文書を作成し、この文書のとおりに手続を進めており、ボストン大学から被告の入学を認める通知が来た際、堀川(旧姓沢田)由香が、被告に対し、そのころ、留学規程の小冊子を交付したこと、碓田勉は当時堀川(旧姓沢田)由香の作成した業務日報に基づいて諸手続の進ちょく状況につき報告を受けており、堀川(旧姓沢田)由香が被告に対し、本件留学規程を渡したことは間違いないこと(<証拠・人証略>)、以上の趣旨の部分があり、これと内容的に一部符合するものとして<証拠略>がある。

しかしながら、甲第九号証の記載及び証人碓田勉の供述中の右各部分を裏付けるべき業務日報その他の原告の当時の文書は何ら提出されていないし、弁論の全趣旨によれば、被告が本件留学規程を受領したことを証する文書又は本件留学規程中の留学費用返還に関する条項を内容とする念書その他の合意書が作成されたことはなかったことが認められ、これらの点と併せて考えると、甲第九号証の記載及び証人碓田勉の供述中の前記各部分のうち、研修室の担当者が被告に対して本件留学規程を交付し、又はその中の留学費用返還に関する条項を説明したことに関する箇所は、その十分な裏付けを欠くといわざるを得ないし、その供述自体に一部不合理な点があることも否めないのであって、<証拠略>に照らしてたやすく採用することができない。そうすると、甲第九号証の記載及び証人碓田勉の供述中の前記各部分の証拠としての価値は、結局、当時の研修室の事務処理の状況からすれば、担当者が被告に本件留学規程を交付し、留学費用返還に関する条項を説明したはずであるというに帰するところ、この部分についても、<証拠略>に照らしてたやすく採用することができない。

三  争点3(留学費用返還に関する本件留学規程一八条と労働基準法一六条)について

前記認定事実に、<証拠略>を併せて考えれば、原告の就業規則七七条は、「会社は、従業員の能力開発を援助するため、別に定めるところにより研修を行う」旨定め、従業員研修要綱は、この規定に基づき、研修体系を定めており、本件留学規程は、従業員研修要綱の定める職場外研修のうち派遣研修について定めるものであること、本件留学規程は、従業員を大学、大学院及び学術研究機関等に派遣して、証券業務に関する専門的知識の吸収、諸資格の取得及び国際的視野の拡大に努めさせ、もって会社の発展に寄与することを目的とするものであり(一条一項)、人事部長が指名して留学を命ずる場合のほか、留学を希望する者が応募した場合であっても、選考により留学が決定されると、原告が当該従業員に対し、海外に留学派遣を命ずるのであり(一条二項、二条二項)、留学派遣先の専攻学科は原告の業務に関連のある学科を専攻するものとし(六条)、留学に要する費用は原則としてその全額を原告が負担するものとし(一五条)、留学生は、修了後遅滞なく、留学に要した費用を、領収書等の証憑を添付して原告が指定する方法で精算しなければならないとし(一七条)、留学期間中の給与等について特則を規定している(二一条、二二条)ほか、就業規則、海外勤務規程等を適用することとしている(三条)のであって、これらの諸条項とともに「この規程を受けて留学した者が、次の各号の一に該当した場合は、原則として留学に要した費用を全額返還させる。(1)<略>、(2)留学終了後五年以内に自己都合により退職し、又は懲戒解雇されたとき」と規定している(一八条)こと、以上のとおり認められる。

そうすると、原告は、海外留学を職場外研修の一つに位置付けており、留学の応募自体は従業員の自発的な意思にゆだねているものの、いったん留学が決定されれば、海外に留学派遣を命じ、専攻学科も原告の業務に関連のある学科を専攻するよう定め、留学期間中の待遇についても勤務している場合に準じて定めているのであるから、原告は、従業員に対し、業務命令として海外に留学派遣を命じるものであって、海外留学後の原告への勤務を確保するため、留学終了後五年以内に自己都合により退職したときは原則として留学に要した費用を全額返還させる旨の規定を本件留学規程において定めたものと解するのが相当である。留学した従業員は、留学により一定の資格、知識を取得し、これによって利益を受けることになるが、そのことによって本件留学規程に基づく留学の業務性を否定できるわけではなく、右判断を左右するに足りない。

これを被告の留学についてみれば、<証拠略>によれば、被告は、留学先のボストン大学のビジネススクールにおいて、デリバティブ(金融派生商品)の専門知識の修得を最優先課題とし、金融・経済学、財務諸表分析(会計学)等の金融・証券業務に必須の金融、経済科目を履修したこと、被告は、留学期間中、本件留学規程に基づいて現地滞在費等の支給を受けたこと、被告は、帰国後、原告の株式先物・オプション部に配属され、サスケハンナ社と原告の合弁事業にチームを組んで参加し、原告の命により、サスケハンナ社の金融、特にデリバティブに関するノウハウ、知識を習得するよう努め、合弁事業解消後も前記チームでデリバティブ取引による自己売買業務に従事したことが認められ、被告は、業務命令として海外に留学派遣を命じられ、原告の業務に関連のある学科を専攻し、勤務している場合に準じた待遇を受けていたものというべきである。原告は、被告に右の留学費用の返還条項を内容とする念書その他の合意書を作成させることなく、本件留学規程が就業規則であるとして就業規則の効力に基づき、留学費用の返還を請求しているが、このことも被告の留学の業務性を裏付けるものといえる。

右に基づいて考えると、本件留学規程のうち、留学終了後五年以内に自己都合により退職したときは原則として留学に要した費用を全額返還させる旨の規定は、海外留学後の原告への勤務を確保することを目的とし、留学終了後五年以内に自己都合により退職する者に対する制裁の実質を有するから、労働基準法一六条に違反し、無効であると解するのが相当である。

四  以上の次第であって、原告の請求は、理由がないから失当としてこれを棄却する。

(裁判官 高世三郎)

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